「若者が長い文章を読めなくなった」という記事をよく見かける。
たいてい、良くないこととして語られている。
本当にそうなのだろうか。
そもそも、なぜ読めなくなったのか。
長いから読めないのではなく、密度の低い文章を読まなくなったのではないか。
実際、昔は喜んで読んでいた本も、今読み返すと、密度が低くて、魅力を感じないことが多い。
300ページくらいある紙の本でも、言いたいことは、最初の4分の1くらいでだいたい出尽くしていて、残りの4分の3は蛇足だったりする。
同じ話を別の角度から繰り返したり、本筋から外れたり、あまり確信の持てない話を広げたり。
昔から、うすうすそう感じてはいた。
それでも、当時は喜んで読んでいた。
自分が興味を持った分野の活字は希少だったし、半分は娯楽だった。
知りたいことが分かるだけでなく、その分野の文章を読みこと自体が楽しかった。
でも今は、TwitterをはじめとするSNSによって、短い文章に高濃度のメッセージを詰め込む文化に慣れた。
そうした文章が、延々と流れてくる。
だから実は、私たちが文章を読んでいる時間は減っていない。
読んでいるものが、高密度だが互いにつながっていない、断片的な情報に変わった。
そんな文章を際限なく読める中で、一続きではあるものの密度の低い文章を読むと、時間を無駄にしている感覚になる。
それで読む気が失せるのではないか。
紙の本には出版や流通のコストがかかる。
原稿を書き、印刷し、卸や小売を通じて読者に届けなければならない。
一度の出版でなるべく高い価格をつける必要があり、そのために内容が「水増し」されていた気がする。
一方で、配信コストがゼロになれば、伝えたいメッセージが持つ本来の長さまで、文章が縮められる。
その結果が、今の短文文化なのだと感じる。
そしてこの変化は、今に始まったことでもない気がする。
SNSが登場する前にも、私は同じようなことを感じていた。
18世紀の古典などを読むと、まどろっこしい婉曲表現が延々と続いている。
「もっと端的に書いてくれ」、「昔はなぜこんなにダラダラ書いていたのか」と思ったものだ。
18世紀の知識人も、SNSが登場する前の私たちを見たら、「長い文章が読めない」と嘆いたかもしれない。
「最近の若者は」というやつである。
だから、「長い文章を読まなくなった」こと自体は、それほど心配することではないと思う。
「知的な文章を読めなくなった」なら問題だ。
しかし、「密度の低い文章を読みたくなくなった」のであれば、単に、より読み応えのある文章を求めているだけだ。
その要求に応えて、密度の高い文章が次々と生まれ、それを読むことで社会全体の情報処理能力も上がっているのなら、むしろ良いことだと思う。