行動すべき局面で思考し続けてしまい、何も実行に移せず、困った経験はないだろうか?
ある場合、あなたは私と同じ、思考ADHDかもしれない。
思考ADHDとは?
ADHDは、医学的には
不注意・多動性・衝動性を特徴に持つ発達障害の一つ
と定義され(参照:文科省サイト)、以下のような特徴があるとされる:
- 不注意:ひとつのことに集中していられない
- 多動性:じっとしていることが苦手
- 衝動性:考えずに行動してしまう
上記は、一般に行動面を指しているように思われる。
すなわち、
- 不注意:ひとつの行動に集中していられない
- 多動性:行動せずにいることができない
- 衝動性:考えずに行動してしまう
これを行動ADHDと呼ぼう。
私は、行動ADHDの特性は全く持っていない。
ただ、「行動」を「思考」に置き換えると、完全に当てはまっている。
つまり、
- 不注意:ひとつの思考に集中していられない
- 多動性:思考せずにいることができない
- 衝動性:行動せずに考えてしまう
これを思考ADHDと呼ぼう。
これは私の造語であり、医学的な正当性があるかは、全く知らない。
ただ、現に私は上記の「思考ADHD」的特性により、しっくり来ない感覚を抱きながら生きてきた。
よって、この気質を指すのに最適なラベルとして、使っていくことにする。
思考ADHDで困ったこと
私はこの思考ADHDにより、人生において、以下のような困りごとがあった。
学生時代
- 授業で先生から教わる事柄が、表層をなぞったものにしか感じられず、やる気がでない。
- より根源的な説明を求めて、先生に質問するが、納得できる回答が得られない。深堀りする質問を続けているうち、お互いイライラする。
- 先生への質問は諦め、図書館等で自習するが、これに時間を取られて、テストで点を取るための勉強に辿りつかない。
- 試験中に、答案と関係ない「より重要な問い」が頭に浮かび、そちらが気になって集中が削がれる。
- 数学の答案作成中に、解答が分かっても、証明過程で疑問が出ると、その疑問を解消するための証明をし初めて、時間を無駄にする。
- 板書や書き取りのような、「思考の伴わない単純行動」が苦痛で続かない。気がつくと、全く関係ない事柄に関する思考を始めている。
- 既に思考が済んでおり、自分に取って自明な事柄に関する授業を聞いていられない。授業への出席が苦痛。
- バイトで飲食店のホールスタッフ等をやると、思考の伴わない単純労働のため、苦痛で続かない。
社会人時代
- 企画検討や要件定義フェーズでは極めて良いパフォーマンスが出るものの、実行フェーズで急速にモチベーションが下がる
- 実行フェーズは自分でやらずに人任せにして、自分は別事業の構想をし始める
- 「そもそも、この作業/業務/ビジネスはなんの意義があるのか?」が気になり、それが解消するまで、やる気がでない
- マクロ的事象が気になり、目の前のミクロな事柄が些末に思え、パフォーマンスが出ない
- 行動の結果、利益等の成果が出ても、「だから何?(so what?)」としか感じず、早く「思考だけしていれば良い状態」に戻ろうとする
- 仕事人生において一番幸せな時間は、利益が出たときでも、ステークホルダーにインパクトを出せたときでもなく、新しい着想に基づき、良い解釈/視点を得た瞬間
- 上記に至るための思考に注力していない時は、基本的に退屈でイライラしている
上記のように、学生時代も社会人時代も、求められるアウトプット(学生→試験の結果、社会人→利益)と、自身の気質(良い思考をしたい)にギャップがあった。
そのため、マトリックスの世界にいるような、「根本的な何かが、いまいちしっくり来ない」違和感を、常に抱えて生きてきた。
思考ADHDと行動ADHDの違い
思考ADHDと行動ADHDは、不注意・多動性・衝動性が共通しており、一見、気が合うように思われるかもしれない。
しかし実際のところ、全く気がわない。むしろ、相性は最悪な気がしている。
主な要因として、行動ADHDはファスト思考、思考ADHDはスロー思考である点が挙げられそうである(ファスト思考/スロー思考に関しては、カーネマンのファスト&スローを参照)。
行動ADHDは、少し考えたら即行動で、思考ADHDからすると、底の浅い思考を自信満々に断言してくるので、極めてイライラする。
しかも、こちらの忠告を無視して、底の浅い思考に基づいて次から次へと行動しては間違い、その度にこちらが対応を迫られる。
頭の悪い行動のせいで、最も幸せな時間である「思考専念タイム」を奪ってくる人々、と感じる。
一方で行動ADHDも、思考ADHDに対して不快感を抱いているようである。
橋下徹氏がよく使う「クソインテリ」という言葉が、この感覚をよく表しているように思える。
すなわち、行動してアウトプットを出さなければならない局面で、前線に立ちもせず後ろの方から、重箱の隅をつつくような抽象論で、批評をする。
散々あーでもない、こーでもないと述べた挙げ句に、結局自分では何もせず、困難な行動を他者に押し付ける、口だけ番長である。
行動ADHDの文化は、即断即決、即レス、短文、SNS、短尺動画、大量のスマホ通知で表象される。
思考ADHDの文化は、熟考と議論、遅レス、長文、学会、長尺映画、大量の本で表象される。
行動ADHDと思考ADHDはグラデーションであり、0/1ではない。
よって、要はバランスの問題である。
実際わたしも、本来的には思考ADHDであるが、行動やアウトプットを全くせずに生きていくことはできないので、行動ADHD的な在り方を、それなりに身に着けてはいる。
また行動ADHDも、思考を全くせずに行動ばかりしていると、致命的な身体的・経済的ダメージを負う確率が高いため、思考ADHD的な在り方を、多少は身につけているだろう。
ただ、自分がどちらに寄っているのかを知ることは、誰と、どのような人生を送るのかを考える上で、極めて重要である。
次回の記事では、上記を前提に、思考ADHDが幸せに生きられる道を考えたい。
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